太平洋戦争が激化し、昭和17年(1942)から本土が空襲されるようになると軍需工場の疎開が計画されるようになりました。また、陸軍省の命令により、昭和18年(1943)10月から陸軍松本飛行場の建設がはじまりました。
昭和19年(1944)に発生した東南海地震と空襲の被害により三菱重工業名古屋発動機製作所が壊滅的な被害を受けました。
そこで、昭和20年(1945)2月、空襲を受けた名古屋の三菱重工業株式会社の工場を松本市街地の既存工場や学校への疎開が計画されました。しかし、戦況が危うくなり松本市街地への空襲の危機から逃れるために、山間部への再疎開が計画され、4月から地下・半地下工場の建設がはじまりました。
山辺地区では、林城山・向山の2か所で地下工場と半地下工場の建設がおこなわれ、中山地区では、半地下工場の建設が進めれました。
工場の建設工事は終戦までの約5か月にわたって実施され、完成間近の地下・半地下工場もありましたが、当初の目的である航空機の部品製造の操業にまではいたりませんでした。
山辺地区の軍事工場は林城山と向山の2か所に建設されました。山中を格子状に掘り進め、掘り出された岩石や土砂は、トロッコで運ばれて捨てられました。
木製のアーチ状の屋根をもつ半地下工場は、軍によって押収された林地区一帯の田畑に建てられました。
工場建設には、陸軍、三菱重工業株式会社、株式会社熊谷組、技術系の大学・専門学校の学生、勤労動員による松本市周辺や県内の人びと、県外の職人集団、朝鮮人が動員されました。
労働にたずさわった人びとは、山辺地区の公共建物、寺社、民家や「飯場」(共同宿泊施設)に宿泊していました。
昭和17年(1942)年に米軍の本土空襲が始まると、日本軍は軍事工場の分散を進めました。三菱重工業株式会社の名古屋航空機製作所の疎開として、昭和20年(1945)2月、松本市街地の既存工場や学校への工場疎開が計画されました。
戦況が危うくなり空襲の危険から逃れるために、中山地区では4月から半地下工場の建設がおこなわれました。
半地下工場は戦闘機の部品製造などが目的で、建設には陸軍、三菱重工業株式会社、株式会社熊谷組、勤労動員の松本市内周辺や県内外の人々に加え、多くの中国人、朝鮮人、中山国民学校の生徒などが動員されました。
工場労働にたずさわった日本人労働者は、中山地区内の民家や「飯場」(共同宿泊施設)に宿泊していました。中山地区の人びとは、常会を単位に、女性もふくめてこの工場建設にたずさわりました。