世界では、今もなお、核兵器の開発が続けられている中、日本は、核兵器の恐怖と悲惨さを体験した唯一の被爆国として、戦争のない平和な暮らしの大切さを、世界中に向けて発信していかなければなりません。
戦後70年以上が経過し、戦争の記憶の風化が懸念される中、戦争を体験された方の思いを語り継ぎ、戦争の記憶を絶やさず、記録として後世に伝えていくため、「伝えたい 私たちの戦争体験」を刊行しました。
戦時下を生きてこられた方の平和への祈りがこめられている書籍です。
書籍としてお求めになることもできます。ご希望の方は平和推進課(TEL:0263-33-4770)までお問い合わせください。
第1集(平成25年3月初版)
1 戦地での体験
2 満州の地へ
3 内地での体験
4 勤労奉仕・疎開・学徒動員
第2集(平成29年3月発行)
1 成年で終戦を迎えた方々(終戦時20歳以上)
2 青年期に終戦を迎えた方々(終戦時15歳~19歳)
3 少年期に終戦を迎えた方々(終戦時14歳以下)
4 親子平和教室参加者の平和への想い
聯隊本部、大体本部などの連絡係をしていたが、戦争にも出なければいけなかった。目の前で3人の将校が死んだ。1人は腹をやられ、1人は足をやられた。遺体を送るわけにはいかず、手首を切って飯盆の中に入れ持ち帰り、残りは平らなところで土を掛けて葬った。せっかく葬っても野犬が多いとそれを掘り返して食べていた。手首は焼いて遺族に送った。
大森真喜象さん(大正8年生)
昭和19年10月のある日、突然、本当に突然全員に白紙を渡された。特別攻撃隊が出来たので、参加を希望する者は「希望」、どうしても行きたい者は「熱望」、行くのが嫌なものは白紙のままで出せ、と言われた。私も「希望」と書いた。明野で編成された特攻隊の1番と2番が私たちの隊だった。
明野を出たのは11月29日、台湾を目指した。編隊を組んで飛んでいると、突然私の飛行機が出火した。隊長と無線で連絡し、鹿児島に海軍の飛行場があったと思うので一旦そこへ着陸し、その後追いかけると話した。
途中でプロペラが止まり、圧力も気圧も切れた。右下に北飛行場が見えたので無理矢理舵を取った。失速して真っ逆さまに落ちていった。もう何もわからなくなった。昭和19年12月2日に墜落した。
半日ほど気を失っていたと思う。目を開くと隊長以下隊員が、包帯でぎりぎり巻きになってベッドに寝ている私を見ていた。
小野正さん(大正10年生)
姉が、国策「開拓(大陸)の花嫁」で昭和15年に満州へ行った。姉は訓練所に半年ぐらい行って勉強をした。義兄は既に満州に行っていたが、結婚式のために帰ってきていた。1ヶ月ぐらい日本にいた。姉が嫁いだのは21~22歳ぐらいのことで、私は12~13歳だった。
姉の子は満州で生まれた。姉は子供を連れて満州から船で帰ってきた。1ヶ月経って姉は帰った。
姉の子が4歳の時に終戦。姉は終戦後に暴動で殺された。子供も一緒に殺されたと聞いている。
神沢さち江さん(昭和3年生)