昭和19年6月30日、「学童疎開促進要綱(がくどうそかいそくしんようこう)」が閣議決定されました。東京や大阪などの大都市への空襲が激しくなり、子どもたちを都市から農山村へ分散させることにしたものです。
学童疎開は、日本全体では40万人、東京都で20万人が昭和19年7月から9月にかけて、あわただしく実施されました。
世田谷区では、8月10日に、北沢国民学校・太子堂国民学校の両校が松本市と東筑摩郡本郷村(松本市)に出発したのを初めとして、9月2日までに、34校8,333人が長野・新潟県に疎開しました。
松本市域では、8月中に国民学校14校、児童数4,437人を受け入れました。そして、子どもたちは浅間温泉と美ヶ原温泉の旅館や寺院に泊まり、近くの国民学校へ通いました。疎開してきた子どもたちは、松本平できびしい冬を越しました。
学童疎開完了は昭和20年3月と決められていましたが、大都市空襲は激しさを加え、1月の閣議で1年延長を決定。6年生だけが卒業と進学のために帰京しますが、その直後の3月10日に東京で大空襲がありました。
3月から4月にかけて第2次疎開がおこなわれました。帰京できたのは、終戦3か月後の11月でした。
写真は、浅間温泉千代の湯に疎開してきた代沢(だいさわ)国民学校の学童(所蔵:松本市文書館)
参照:『松本の歴史を学ぶ-文書館子ども講座-(令和2年出版)』(松本市文書館)