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戦時中のできごと 2023.02.28

満洲移民

昭和6年9月に起きた「満州事変」以後の昭和7年3月、日本は中国東北部に「満州国」を建国しました。そして、ここに移民することが、国策として進められました。

「五族協和・王道楽土(ごぞくきょうわ・おうどうらくど)」を目標とし、日本・朝鮮・漢・満州・蒙古(モンゴル)の人たちの理想郷をつくろうというものでしたが、実際には日本の一方的支配が進められました。

 

長野県は、日本一の「満洲移民」送出県でした。昭和20年8月までに、県下から送りだされた開拓団の人数は全国1位、2位の山形県の約2.2倍でした。この人数は、全国の開拓団員・義勇軍隊員の総数32万人余のうちの11.8%でした。

 

松本市域からも大勢の人が国策のために「満洲」に渡りました。そのうちのひとつが東筑摩郡の筑南地区中心に組織された、第11次瑪瑯河(まらほ)東筑摩郡開拓団です。

団長には、岡田村(松本市岡田)の所 貞門(ところ さだと)さんが選任されました。ほかの幹部も郡内から選任されました。団員の入植はなかなか進まず、昭和20年3月までに、目標の約300戸の3分の1にも及びませんでした。

所団長が岡田村の村長に宛てた昭和17年5月28日付の手紙では、入植は98戸373人と報告しています。家屋は1棟2戸建ての木造平屋・草葺(くさぶ)き屋根、天井は紙張りで、壁は泥を固めて乾燥させたレンガを積み重ね、暖房はペチカ(暖炉)とオンドル(床下暖房)がありました。さらに6月30日の手紙には、「水田と畑の除草の真っ最中で、猫の手もかりたいほどの忙しさ」「男子も女子も真っ黒に日焼け」「人手と肥料ともに充分ではないこの年の豊作を神に祈る」と書かれています。

昭和18年3月15日付の手紙では、「吾等拓士の今日の大使命は、食糧増産と北辺鎮護(ほくへんちんご・・ソ連との国境付近で日本の人たちを守ること)の二つであり、北辺鎮護は関東軍に委任したとしても、食糧増産はあくまでやり遂げなねばならないと決心しています」と書かれています。

入植から3年目の昭和19年2月15日付の手紙には、「吾等開拓民は此の北満の地にて其の恵まれた地力と条件とを最高度に発揚つかまつり決死的の覚悟をもって食糧増産の決戦に挺身(ていしん・・自分の身を投げ出して取り組むこと)致しています」とあります。

しかし、現実には、食糧増産の担い手の所団長はじめ幹部・団員74人が日本軍に召集され、そのまま終戦をむかえます。関東軍に見放され、あとに残された団員の約半数は悲惨な目にあいました。逃げるときも、地元の人たちの襲撃や寒さ・病気とも闘わねばならず、そのうえ食糧を得ることが大変困難でした。

東筑摩開拓団では、287人のうち、戦死・病死者は163人、日本に帰ることができなかった人は25人で、生きて日本に戻ることができたのは所団長を含め99人で、団全体の34%でした。

 

 

参照:『松本の歴史を学ぶ-文書館子ども講座-(令和2年出版)』(松本市文書館)

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