記事詳細

戦争遺跡 2020.03.10

旧陸軍飛行場

太平洋戦争が激化してきた昭和18年(1943)10月、陸軍省から今井村役場に関係者が集められ、その場で飛行場範囲が示されました。その月のうちに、笹賀国民学校に、神林・笹賀・今井の3村の地主が招集され、耕地・山林など200町歩以上に及ぶ飛行場用地買収調印しました。10月には測量が始まり、昭和19年2月下旬から整備工事が開始されました。
工事には、周辺の住民、学生、児童までが勤労動員され、さらには多くの朝鮮の人びとも動員されたため、その数は十数万人にも及んだと言われています。
陸軍飛行場が完成したのは昭和20年(1945)8月ですが、滑走路はそれ以前に利用可能であり、3月には当時浅間温泉に滞在していた特攻隊の隊員たちがこの飛行場から飛び立っていきました。また、「赤トンボ」と呼ばれる練習機による訓練もおこなわれていました。
飛行場の施設は、現在の菅野小学校・菅野中学校・住宅地の場所に事務所や6棟の格納等が集中し、その西に滑走路がありました。
本土空襲が激しくなると、格納庫は目立つため、陸軍により2棟が破壊されましたが、残りの4棟は、終戦時まで三菱重工業名古屋製作所の組立工場として使用されました。
終戦後、飛行場に使用された土地の多くは農地に戻され、かつての滑走路は、菅野小学校西側の道路となり、格納庫などが置かれた土地は、住宅地となっています。また、格納庫などのコンクリート基礎の一部は菅野小学校グラウンドの基礎を兼ねており、現在でも確認することができます。

関連記事

戦争遺跡 2020.03.10

旧陸軍飛行場

太平洋戦争が激化してきた昭和18年(1943)10月、陸軍省から今井村役場に関係者が集められ、その場で飛行場範囲が示され……
戦争遺跡記事一覧を見る