
学徒出陣とは、第二次世界大戦末期の日本で、兵力の不足から高等学校や大学などの文科系学生を兵役に就け、前線に送った政策です。
高等学校・大学などの学生は26歳まで徴兵が猶予されましたが、戦局悪化に伴い、兵力不足を補うため、昭和18年に徴兵年齢が20歳から19歳に引き下げられるとともに、高等学校での修業年限も昭和17年には2年半、昭和18年には2年に順次短縮されました。
さらには、昭和18年、高等教育機関在校生のうち文科系学生の徴兵延期措置が撤廃されました。これにより、在学中の文科系学生で徴兵年齢に達している者は、ただちに徴兵検査を経て、同年中に入営させられることになりました。
公式な出征者数は発表されておらず、当時の高等教育機関就学率は3%程度であったこと、また、理科系学生の徴兵が猶予されていたことなどから、新たに動員できた兵士の数は決して多くなかったものと見られます。しかし、将来社会の指導的立場につく人々が出征したことの意味は大きく、総力戦における象徴的な出来事となりました。
昭和18年の「学徒戦時動員体制確立要綱」発表後、同年11月8日には松本高等学校講堂で学徒出陣壮行式が行われ、同年12月1日に第1回学徒兵が入隊しました。

松本高等学校 学徒出陣壮行式

第1回入営集合写真

戦地実戦のための学校教練を行う松本高等学校の学生
「われらの青春ここにありき」(昭和53年9月10日 松本高等学校同窓会)
「学徒出陣のころ」 小沢 行雄(24回理乙2)
『23回生の繰りあげ卒業式が挙行された2日後の9月22日、ラジオニュースは私達が夢想だにしなかった学徒出陣の報を告げたのであった。
(中略)
都塵を離れた信濃の地にあって、多少の生活の不便さは及んでいたものの、大都会程しめつけも強くなく、ほぼ昔通りの高校生活を楽しんでいた私達にとっては、このニュースはまさに大きな衝撃であった。
(中略)
壮行大会は11月7日夕に講堂で挙行された「壮行の夕」で幕が切って落とされた。音楽部員によるマンドリンの合奏、ピアノ、ヴァイオリン、ギターの独奏、合唱から文化映画の上映があり、最後は文甲から始まって理乙2で終る6類の壮行歌の大斉唱で締めくくられたあの夜よ。各類の壮行歌はあるいは静穏に、あるいは激烈にとそれぞれの真情を迸り出したものであった。』
(資料収蔵:旧制高等学校記念館)
かつて多くの教え子を出陣学徒として戦地へ送った本郷村(現在の松本市本郷地区)出身の大学教授は、その無念の思いから慰霊塔の建立を強く要望し、昭和34年に第三セクターである美ヶ原観光株式会社が中心となって、美鈴湖付近に「全国殉国学徒慰霊塔」が建立されました。

慰霊碑

展望台を兼ねた慰霊塔
※老朽化により現在は立ち入りできません。
平成28年、慰霊塔の老朽化により、英霊慰霊殿礎石を本郷地区公民館前の英霊碑横に移設しました。
本郷地区では毎年「本郷地区戦没者並びに全国殉国学徒合同慰霊祭」を開催し、若くして戦地で散った学徒たちの遺志を後世に伝えています。
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令和6年度本郷地区戦没者並びに全国殉国学徒合同慰霊祭(主催:本郷地区町会連合会)